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『人新世の「資本論」』を読んで、「成長」を考える。

 2020年9月に発行されてベストセラーになったので、すでに読まれた方も多いと思います。
 電子書籍の新書版になったので購入したのですが、しばらく読めず、このお盆休みにようやく読了できました。
 著者の主張に賛同まではできませんが、資本主義と気候危機、気候危機を乗り越えるためにどのような経済を目指すべきなのか、については、いろいろ示唆に富む視点があって、面白かったです。
 どんな視点が面白かったが、私なりに考えたところも含めて、ご紹介しますね。経済学は門外漢なので、そのへんはご容赦くださいね。

 「人新世(ひとしんせい)」というのは、地質年代(ジュラ紀とかカンブリア紀とか)として、人類の活動の痕跡が地球表面を覆いつくした年代という意味です。オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェン氏が2000年に提唱したものです。

 人新世の始まりはいつか、については議論が分かれていますが、気候危機の原因である人類による温暖化ガスの排出が始まったのは、化石燃料を基本のエネルギーとして使い始めた産業革命の頃になります。資本主義の起源もこの頃ですよね。

 時期が同じでも、歴史の偶然ということもありますが、著者は、気候危機を含めた地球環境の現状は資本主義経済の必然的結果であるといいます。マルクス主義経済学のいう資本主義の本質は、すべての物事を商品化することによって資本が無限の価値増殖を目指すところにある、というものです。そして、価値増殖の根源は、労働力の搾取のみならず、原材料である自然資源の搾取も伴っており、この、資本の自然資源に対する無限の搾取要求こそ、人類に地球の限界を超えさせた原動力、というわけです。平たく言うと、自分たちが生活していくのに必要な分を超えてたくさん物事をつくり、それを「商品」として売って儲けて、それがどんどん拡大していくうちに、その活動が、生活の必要や材料資源の限界とは無関係になって、どんどん自己目的化していく、ということでしょうか。
 しかも、1990年代以降のグローバル資本主義は、ヒトに対する労働力の搾取と自然環境に対する資源の搾取を「グローバルサウス」に押し付け、それが行きつくところまで行きついた挙句、未開のフロンティアが消尽しつつあるのが現在の状況というわけです。グローバルサウスというのは、グローバル化によって被害を受ける領域とそこの住民で、以前の「南北問題」のことです。

 著者が示す人類への解は、脱成長、脱資本主義、です。
 
 「成長」と「資本主義」は必然なのかと思うのですが、著者は「資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。」と言います。
 そして、資本主義的「成長」イコールGDPの増加、であるのに対して、「脱成長」とは、GDPでは測れない人々の生活の質の向上、地球の限界(プラネタリー・バウンダリー)を超えない範囲で、経済格差を無くし、社会保障を充実させ、余暇の増大を重視する経済モデルへの転換、というものです。

 著者が示す人類への解をひと言でいうと、ずばり「脱成長コミュニズム」

 近年、世界中のマルクス研究者によるMEGA(メガ)と呼ばれる国際プロジェクト、マルクスとエンゲルスの遺稿をすべて網羅したマルクス・エンゲルス全集が進められているそうです。その資料のうち、マルクスの「研究ノート」には、資本論の第1巻を刊行した後、マルクスはエコロジー研究と共同体研究に没頭していたことが読み取れるのだそうです。
 コミュニズムといえば、「共産主義」ですが、マルクスのいうコミュニズムとは、生産者たちが生産手段を<コモン>(社会的に人々に共有され管理されるべき富のこと)として、共同で管理・運営する社会のことです。
 共産主義や社会主義というと、どうしてもかつてのソ連や中国の暴力的革命を思い起こしてしまいます。この本に対する評価のなかにも、危険な社会変革をもあおる過激思想だ、というものがありました。
 しかし、著者が本書で脱成長コミュニズムへの萌芽として挙げる実例は、バルセロナ(スペイン)の気候非常事態宣言や、協同組合による参加型社会、なので、どうやって脱成長コミュニズムを実現(移行?)するのか、に関しては、平和的かつ民主的に、ということのようです。

 「脱成長コミュニズム」が人類の未来社会として正解なのかどうか、それは私にはわかりませんが、いくつか、今の状況を考え直すためのヒントはもらえました。

 先ず、脱成長の「成長」がGDPの増大だとして、GDPとは「一定期間内に国内で新たに生み出された財やサービスの付加価値の総額」と定義されるので、この算定要素は、財やサービスが「商品」として売れた価格(=交換価値)、と、その元手すなわち投入された原材料価格や生産手段のための費用、ですよね。ここにはそもそも、その商品の価格=交換価値が本当にそれでよいのか、付加価値が賃金や利息や内部留保に分配されるべき比率の適正さ、物価との関係での物質的豊かさ、さらには、働きがいややりがいや生きがいの精神的豊かさ、などは含まれていません。
 確かに、GDPに代わる「豊かさ」の指標は未だ発明されていませんが、成長=GDPであれば、それは捨てても良いかな、と思いました。

 また、物やサービスの価値がもっぱら「交換価値」で測られるのに対し、著者は「使用価値」(=利用価値)こそが優先重視される経済社会を提唱します。
 交換価値と使用価値は、宝石を例に考えると分かりやすいですよね。ダイヤモンドは、交換価値は高いですが、その使用価値は人それぞれですよね。少なくとも無人島に独りキャンプに行くときに、ダイヤモンドさえ持っていけば大丈夫!と考える人はいないと思います。交換価値にしても、ダイヤモンドや金の価値を基礎づける強度や不変性を作ったのは宇宙と地球のはずなのに、偶々それが埋まっている土地を取得(占有?奪取?騙取?も含め)した人があんなに高価で売ることができる理由はどこに在るんでしょうか?

 そして所有権、特に、土地に対する所有権、です。この本でも、資本主義は、イギリスで始まった「囲い込み」、すなわち農村共有地(コモン)の私的所有化によって資本主義は離陸した、とされています。土地は、ヒトが生きていくための生活基盤であるとともに根源的な生産手段でもあります。日本でも、入会地の多くは、維新直後の明治政府によって解体されてしまいましたが、農村部には今でも、入会地(いりあいち)や慣習水利権が残っています。
 環境裁判や環境問題の調査でも、いつも疑問に感じていたのが、所有権の絶対的力と入会地の弱さ、でした。
 特に日本は、欧米に比べても土地所有権に対する社会的制約が弱く、所有者がその土地の歴史や経緯や近隣地や周囲の環境との調整も顧みず、所有権絶対を振りかざして好き勝手に乱開発しても、それを阻止する法的手段はほとんどありません。
 所有権は、近代市民法の基盤的概念でもありますが、少なくとも土地所有権に対する見直しは、転換にしろ修正にしろ、自然環境保全には必須だと思います。

 あと、技術に対する言及も、なるほどと思いました。ざっくり紹介すると、気候危機という人類全体に関わる問題への対処において、一部の専門化しか使えない、一部の専門家に独占されやすい技術は、解決策にならないといいます。特に、人が生活するのに必要なエネルギーに関する技術は、誰もが作りやすく使いやすいものであるべき、というのは、原発の教訓でもありますよね。

 最後に、脱成長だの生産手段の共有だの言うなら、中小企業だって否定されてしまうのでは?と思われる方もおられると思います。
 実は、中小企業の位置づけや評価は、とっても難しい問題のようです。議論はあるようですが、通説や正解は未だ無いようです。少なくとも私の知る限り、納得できる答えに出会ったことはありません。

 会社の従業員数が増えるという意味での会社の成長は、少なくとも、雇用を増やす点で社会的に良いことであって、GDP的成長とは別のことです。確かに、従業員数が増えれば、売上も利益も増えることになりますが、そこで問題になるのが、労働分配率や従業員さんの働きがい、参加度や自己実現度、ということなのだと思います。

 GDP的には測りえない多様な価値を、中小企業はたくさん持っていると思います。